出会いの中から (聡君のお母さんと呼ばれた岡田先生のことば)

人生は出会いである。と言う言葉があるが、学校を卒業して間もない頃、
偶然出会ったマアちゃんこそ、
私の人生の出会いというべき子どもであった。
マアちゃん、知恵遅れの子どもであった。それまでほとんど障害児に接したことのなかった私にとって、
マアちゃんと接する日々は、とまどいと好奇心から始まったようだったが、
接するごとに妙に自分の中に増してくる
マアちゃんへのいとおしさのようなものに驚きながら、それまで障害児を知らないくせに漠然と持っていた
障害児観が如何に偏見であり、無知であったかを知らされ、
マアちゃんへの魅力にとりつかれていった。
当時彼は6才、片言のおしゃべりができた。やさしげな声で 「シェンシェイ アノネー」 と語りかける。
そしてあとは何やらわからないことをアワアワと話し、ウンウンとうなずくと
「アンタトウ」 と ニコッ とする。
それを聞いていた子ども達が 「 マアちゃん英語でお話している!」 と感心した。
しばらくして彼は施設にはいって別れたが、私の心を大きく占めたマアちゃんの存在は、
しだいに障害児教育の道に進みたいという望みに変わっていった。
周囲の反対を押し切って肢体不自由児施設に就職したのは翌年のことだった。
ここで私は多くの脳性まひ児をはじめ様々な障害を持つ子供達と出会った。
さなえちゃんという女の子がいた。
知恵遅れの子どもだったが、生後八ヶ月の時家が火災にあい、
その時の火傷がもとで両下肢を切断、長い病院生活ののち、施設に入園してきたのであった。
家庭をほとんど知らずに育ってきたさなえは人一倍愛情に対して敏感であった。
むさぼるように愛を欲した。
しかし職員が三交代で勤務する施設では、
ひとりの子どもにじっくりかかわってあげる余裕もなく、その時その看護師の都合で
うるさがられたり、無視されることも多かった。
満たされない心のまま、さなえは次々と問題行動をおこした。
夜中に鋏を持ち出して自分の髪ばかりでなく他の子の髪を切ってしまったり、
服をボロボロになるまで引き裂いたり 、大便をぬりたくったりした。拒食をし廊下の隅に硬い表情のまま
一日立ちつくしていたこともあった。
そんなことを繰り返したあげく 、ある日退園となった。
両足義足をつけ一応歩行可能となったから、治療・訓練の目的を果たしたというのである。県に唯一の療育施設は
入園を待機している児童が多かったのである。
さなえの家庭は彼女が病院や施設に生活している間に次々に弟妹が三人生まれ、
その生活は貧しいという。そこにさなえのはいってゆける場所はあるだろうかと胸は痛んだ。
そして一度様子をみようと 、ある休日汽車に乗り山間の町へたずねていった。
彼女の家は町外れにあった。
不運にも二度も火災にあい現在の家は父親が古材を集めて一人で建てたのだという。
それはようやく雨露をしのげるというだけの畳も家具も何もない
一間きりの家だった。そこに親子六人が住んでいるのである。
私の想像をこえた悲惨さに衝撃を受け、ことばもなかった。
ここでは義足は役に立たず 、何も付けない太ももの断端をさらしながら、
さなえは家の前を這いずって泥あそびをしていた。その手の動きはせわしなく 、
心の不安定をそのまま表わして無目的で衝動的であった。
全身泥にまみれていた。
話しかけても無言のまま表情も変えない。母親は
「先生、いくら叱ってもこのとおりなんですよ。泥んこのまま家に入るから家の中も泥だらけ、
部屋の中に入れておくと鋏を持ち出して手あたりしだい皆の服を切ってしまったり、少しも目が離せません。」
と訴えた。さなえを扱いかねたやり切れなさが声にも態度にも表れていた。
取りつくしまもなくただ黙って見ている私の姿を
さなえは時々ジロッと上目づかいに見上げた。
自分はこの子に精一杯のことをしてきた。この子も私には心を開いてくれたという自負心は崩れてしまった。
私の感傷のまじったまやかしの愛情など 、
この子には受け付けられていなかったのだと苦いものがわきあがってきた。
自分の無力を痛いほど感じながら 、なすすべもないまま帰ることにした。しばらく歩いていると後ろから大声で
「センセ マタキテネー」と声がした。
ふりかえるとさなえが手を振りながら「マタキテネー」と繰り返し叫んでいるのである。
思わずウッとこみ上げるものがあった。
自分が一段高みに立って障害児を助けようなどという思い上がり、
気負い、傲慢さ、そんなものが、さらけ出され叩きのめされた。そんなさなえとの出会いであった。
その時から自分はほんとうに無力だけど、子どもと共に生きよう。
共に歩いてゆく中で精一杯の努力をしてゆくしかないのだと考えるようになった。
あの時の 「マタキテネー」 の切ないような叫びは 、今も痛みとなって心の中にありありと残っている。
それから二〜三年後のこと、
としおはその時五年生、脳性まひによる重い言語障害のためほとんど話せなかった。
しかし陽気で巧みな身ぶり手ぶりでいろいろなお話しをして楽しませてくれる子だった。その頃、
施設の複雑な職員構成からくる人間関係で、大変辛いことがあった。
弱い私は耐えきれない思いで教室の隅に隠れ、こっそり涙を拭いていたことがあった。
そこへとしおが入ってきたのである。
私を見つけると彼は心配そうに寄ってきてそっと様子をうかがっている。
そして涙を見ると黙って私の背に手を置いた。その手の温かみが背を伝わって来ると、
それまで耐えていたものが胸の中でほぐれ 、溢れてくる思いで涙がとまらなくなってしまった。としおは何も言わず 、
何も聞かず、ただ靜かに背をさすってくれた。ようやく涙をおさめ笑顔を見せると 、ニコッと笑い返し
ヤレヤレというように外へ遊びに行った。
それは百万の慰めのことばよりも心にしみる優しさだった。
「 絶望をくぐらないところに、ほんとうの優しさはない 」 と言った人がある。
としおは日頃のおどけた身ぶりの中にはうかがえないところで、身体の不自由さにもまさる
話せない苦しみを負って苦しんでいたのかもしれない。その中で幼いながら人の痛みのわかる優しさを育てたのだろうか。
その時、私は子ども達に与えたよりも、もっと多くのものを子ども達から受けていることを、改めてしみじみと思った。
私はどれだけこのような優しさに支えられてきただろう。
町田養護学校に来て、重い寝たきりの子ども達に出会った。
はじめは何故このような重い障害を、とたまらなく痛ましかった。
しかしこの子等の珠玉のような笑顔にふれているうちに、人間が生きることの意味を深く考えさせられた。
無垢な輝くような笑顔を見るたびに、自分の醜さが洗われ清められるような思いがし、
疲れている時、心が沈んでいる時、心に灯をともしてくれるように力づけてくれるその笑顔ー
ーそれは強いもの勝れたもののみが認められるという社会功利主義的な考えを否定し、
その存在そのものが私達の心に大きなものを与えているということを教えられた。
いつか 「存在は行為に先行する」 ということばを読んだことがあるが、
その意味がはじめてわかった気がした。人間はどれほど具体的に役立つかによって価値がきまるのではない。
何よりもその存在のしかたが大切なのであるということーーそれに気づいた時、
私の中に新たな生きることへの意味と力が与えられた。今までほんとうにたくさんの子ども達に出会ってきた。
私を教え、導き、支えてきてくれた子ども達 ありがとう。