谷間に咲く名もなき花のように

年賀状の中に多くの昔の教え子達からのものがある。

麻痺のある手で書いたゆがんだ字、母親の代筆のもの・・・

それら一枚一枚を見つめていると、その子達の人生が浮かんでくる。

社会に出た子、施設にいる子、授産所で働く子、在宅の子、それぞれ様々な

問題を抱えながらもひとりの人間として懸命に生きている。

彼等の人生のほんの一部に私はかかわって生きた。それは彼等の人生に

何程の影響を与えたであろうと思えば、ただ無力であったとしか云いようがない。

それにもかかわらず別れて十年以上も過ぎようというのに、このように便りをくれる。

これらの年賀状の一枚一枚にこめられたものは、

私の生きた証しでもあろうかと思うこの頃である。私が学校を卒業して間もない頃、偶然出会ったマアちゃん

という障害児こそ私の人生の出会いともいうべき子どもであった。

それまでほとんど障害児に接したことのなかった私にとって、

マアちゃんとの日々はとまどいと好奇心からはじまったようだったが、接するごとに妙に自分の中に増してくる

彼へのいとしさのようなものに驚ろきながら、

それまで障害児を知らないくせに漠然と持っていた障害児観が如何に

偏見であり、無知であったかを知らされ、マアちゃんへの魅力にとりつかれていった。

しばらくして彼は施設にはいって別れたが

私の心を大きく占めた彼の存在はしだいに障害児教育の道に進みたいという望みに変っていった。

周囲の反対を押し切って肢体不自由児施設に就職したのは翌年のことだった。

ここで私は多くの脳性まひ児をはじめ様々な障害を持つ子ども達に出会った。

さなえちゃんという子がいた。知恵遅れの子どもだったが生後八ヶ月の時、

家が火災にあいその時の大火傷がもとで両下肢を切断、長い病院生活ののち施設に入園してきたのであった。

家庭をほとんど知らずに育ってきたさなえは人一倍愛情に対して敏感であった。

むさぼるように愛を欲した。

しかし職員が三交代で勤務する施設ではこの子の心を満たしてやる余裕もないまま、

さなえは次々と手におえない問題行動をおこしていった。そのあげく退園させられたのである。

さなえの家庭は彼女が病院や施設で生活している間に次々弟妹が生まれ、

その生活は貧しいという。そこに彼女がはいってゆける場所はあるだろうかと胸は痛んだ。

そこである日電車に乗り山間にあるさなえの家をたずねたのである。

街はずれにあるその家の想像を越えた貧しさに衝撃を受けた。

そこで彼女は義足もつけず土の上を這いながら泥あそびをしていた。話しかけても

無言のまま固い表情を崩さない。取りつくしまもなくただ黙って見ている私の姿を

さなえは時々ジロッと上目づかいに見上げた。

自分はこの子に精一杯のことをしてきた。この子も私には心を開いてくれたという自負は崩れてしまった。

私の感傷のまじったまやかしの愛情など、

この子には受け付けられていなかったのだと苦いものがわきあがってきた。

自分の無力を痛いほど感じながら、なすすべもないまま帰った。

自分が一段高みに立って障害児を助けようなどという思い上がり、気負い、傲慢さ、

そんなものがさらけ出され叩きのめされたさなえとの出会いであった。

その時から自分は無力だけど障害者の <ために>ではなく、 <共に>生きること、

子ども達の悲しみや喜びを共にしつつその重荷を少しでも軽くすべく力をつくすことこそ、

無力な私が目指すべきことであると、目を開かされたのであった。町田養護に来て十年になったが、

私はその間重い腰痛を患った。何度か入院もし手術もした。しかし完治はしていない。

長い間働いてきて、気がついてみたら家庭も子どももなくひとりぼっちで、

あるのはただ腰痛だけとはあまりにもみじめだと自分を憐れんでみたりもした。

そんなうつうつとしていた頃、続けて担任していた子どもを亡くした。痛いような悲しみの中で、

実に大きな存在を亡くしたことに気づいた。

何もできない最重度の子ども達だった。しかしその珠玉のような笑顔に、

私はどれほど励まされ、慰められ、心に灯をともされるような力を与えられたことだろう。

その子達はただ存在するだけで私達の光となっていたのだった。亡くなった子ども達の、

そして障害の重い子ども達の“存在の輝き”ともいうべきあり方から、

生きるということの根本を問い直し、教えられ、私は自分を憐れむということの愚かしさから、

少しづつ立ち直っていった。そして先頃は胸の腫瘍の大きな手術も受けた。

この時は死の淵に立たされたような気持ちを味わった。

病気ばかりが続いて不幸といえば不幸とも言えるが、そこをくぐりぬけてきたおかげで、

人の苦しみや痛みが本当にわかち合えるようになってきたように思える。

そして子ども達と過ごせる一日一日がとても大切であり深い喜びともなってきた。

今 私の好きな言葉

わたしは尾根を歩くより

山を見上げて歩く谷間が好きです。

その道を歩いてゆくときに

ふみにじられた一輪の花に愛を感じます。

誰にも知られず無心に生き続けている

花の美しさに心ひかれます

誰にも知られず苦悩の谷間を生きる人達と共に歩み、

共に祈ることのできる人生を歩ませて下さい。 

なんと幸いなことでしょう。

その力が、あなたにあり、

その心の中にシオンへの大路がある人は。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、

そこを泉のわく所とします。

初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

彼らは、力から力へと進み、

シオンにおいて、神の御前に現れます。詩編84:5-7

初めからあったもの、

私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、

また手でさわったもの、

すなわち、いのちのことばについて、

--このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、

そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。

すなわち、御父とともにあって、

私たちに現わされた永遠のいのちです。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、

御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

私たちがこれらのことを書き送るのは、

私たちの喜びが全きものとなるためです。

神は光であって、神のうちには、暗いところが少しもない。

これが、私たちがキリストから聞いて、

あなたがたに伝える知らせです。

もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、

しかもやみの中を歩んでいるなら、

私たちは偽りを言っているのであって、真理を行っていません。

しかし、もし神が光の中におられるように、

私たちも光の中を歩んでいるなら、

私たちは互いに交わりを保ち、

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

第一ヨハネ1:1-7

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル36:25,26)

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