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2011年8月号  page1  page2


「完璧な隣人たち」

ある農村にて(写真と本文とは関係ありません)  私たち一家が引っ越すことになった時、完璧な場所を探そうと心に決めていました。子供はまだとても小さいので、学校についてあれこれこだわる必要はありません。交通が不便でも気にしませんし、店までの距離が近いことも私たちの優先順位ではありませんでした。ただ私たちが何よりも重視したかったのは、よい隣人を選びたいということでした。
 いろいろ探して、ついに街中の現在の家から四キロほど離れた所に素晴らしい村を見つけました。へんぴな所で村まで直通する道はなく、人々は私たちのようなクリスチャンを警戒しています。完璧です!
 フィリピンに住んでほぼ二年経ちましたが、イスラム教徒には近づかないようにと一度ならず警告を受けました。北部では大人が子供たちをおどかし、言うことを聞かせるためにイスラム教徒のことをひきあいに出しますが、そんな大人たちでも実際にイスラム教徒に会ったことのある人はわずかしかいません。
 南部でもいかに自分はイスラム教徒に傷つけられ、不信感を持つようになったかという話を数人から聞かされ、彼らには近づかないようにと諭されました。だからこそ私たちは敢えてイスラム教徒の人々の中で生活することを選んだのです。母国でもイスラム教徒に会ったことがあり、何人かとはよい友達になっていたので、こわくもなければ悪い印象もありませんでした。しかし彼らの方が私たちを受け入れてくれるでしょうか?
 この完璧な村を見つけてから、私たちは祈り始めました。奇跡が起こらない限り、私たちが歓迎され、受け入れられることはないからです。何世紀もの対立の結果、イスラム教徒とクリスチャンの間には敵意と恐れの壁が築かれていました。私たちは車で村全体が見わたせる場所まで行って、神に心を注ぎだして祈り続けました。
 ついにある日、私たちは車で村の中へ入って行きました。村人たちの動きがピタリと止まり、全員がこちらに振り向きました。どの顔にも微笑みはなく、その場に沈黙が流れました。村人全員の視線を感じながら、私たちはその場で最も無愛想な感じの男性に近づいていきました。
 自己紹介をしておしゃべりが始まると、その場の緊張がほんの少し和らいだようでした。村のリーダーもやって来て話に加わりました。私たちはざっくばらんに自分たちがクリスチャンであること、イスラム教徒とクリスチャンの間の不信感をとても悲しく思っていること、もしよければこの村にしばらく住まわせてもらい、ここの言葉を学び、イスラム教徒とクリスチャンであってもお互い友人になれないかと思っているのですが、と伝えました。
 ぜひ考えてみて下さい、そしてまた来てもよいですか?とお願いし、おいとまする前に村人たちの写真を二、三枚撮りました。写真の中の人たちが将来本当の友達となってくれることを願いながら。
 それから一週間ほどたったある休みの日、私たちは近くの浜辺で過ごしていました。既に一年ほど前から私たちはこの海水浴場の常連でした。私たちはそこで働いている人たちに、近くのイスラム教徒の村について尋ね、そこで撮った写真を見せました。すると、写真を見た人たちは微笑み、中でも写真を手にしていた一人がこう言ったのです。 「これは俺の親父だ。あんたたち、あの村に来て一緒に住みたいって言ったそうだね。そう親父から聞いてるよ。だから親父にも、あんたたちのことをいい人だよ、って言っておいた。あんたたちのこと、長く見てるけど、信用できると思うからね。」
 村を再び訪れた時、雰囲気は全く変わっていました。人々は手を振って歓迎してくれたのです。私たちが引っ越して来ることも承知してくれ、私たちが住む家も選んでくれました。
 このようにして私たち一家はこの村に家を構えました。彼らにとっては日常生活を共にする初めての外国人であり、私たちはこの村が電気も水道もなく、周囲からどれ程孤立しているかを経験する初めてのよそ者となりました。そして彼らは私たちをじっくりと観察し始めました。
 どこが違うのか?どこが同じなのか?困難な時にクリスチャンは自分達のために祈ってくれるのか?村人が皆するように、問題が起きた時、彼らは村の隣人たちに相談するのか?彼らは自分達の礼拝や祝い事に参加するのか?自分達を改宗させようとするのか?
 私たちはお互いが相手にとって最善―神へと続くまっすぐな道―を願っていることを語り合いました。もし私たちがイスラム教に改宗し、あらゆる意味でこの村のメンバーとなったなら、この完璧な隣人たちは喜ぶことでしょう。私たちも彼らにとって最善を願っているので、もし彼らがキリストに従う決心をしたら喜ぶことでしょう。
 コーランには「宗教には強制があってはならない。」(スーラ二・二五六)とあり、聖書には「あなたの隣人を愛せよ。」(ルカ十・二七)と書いてあります。そのため私たちは互いによい友人になり、オープンに語り合い、お互いの話をじっくり聞こうと話し合いました。ここは今まで住んだ場所の中で最高の場所の一つでした。
 村人たちはいろいろ私たちの面倒を見てくれました。夜に犬が吠えれば、隣人が起きてきて異常がないか見てくれます。又、冷蔵庫なしで生活するコツを忍耐強く教えてくれたり、私たちが彼らの言葉を学ぶのに何時間もつきあってくれました。これは私たちを受け入れてくれたことの大きなしるしです。
 私たちの子供達は村の子供達と車や家の塀や標識などに邪魔されることなく自由に遊び回っていました。私たちの家はこの土地で身近に手に入る材料でできていました。ドアをロックすることはできますが、猫もネズミも出入り自由でした。家に盗みに入ろうと思えば簡単にできたでしょうが、そんなことをする人は誰もいませんでした。村人たちは愛想よく挨拶してくれ、私たちは共に笑い、泣き、祈りました。
 彼らは素晴らしい隣人でした。しかし簡単に住める場所ではありませんでした。シンプル・ライフを生きるのは大変なことで、日々多くの貴重な時間が生活のために奪われます。又、まるで世界やテレビ・ネットから得られる情報から切り離されたように感じました。精神的に落ち込み、押しつぶされるような絶望感を味わいました。この村では人々が何世代にもわたって漁業やココナツ椰子の栽培、又は浜辺で働いて生きてきましたが、彼らは貧困から抜け出すことができません。家族が外国でメイドや子守りなどの出稼ぎをしている家庭なら、経済的にもっと余裕がありますが、外国で無事にやっているかどうか常に心配がつきまといます。
 しかし一緒に住むにつれ、私たちも彼らも心の内にあった壁が取り去られていきました。クリスチャンの友達が勇気を出して訪ねて来て、村のプロジェクトを手伝うことすらしてくれました。
 村には幼稚園の教師が必要でしたが、村人たちはクリスチャンのフィリピン人女性を歓迎してくれました。彼らは他のクリスチャンが村に移り住むことを快く受け入れてくれ、その女性も村の子供たちを愛してすぐに村人たちの心をつかみ、すばらしい奉仕をしてくれました。
 そうして彼女が最初に教えた園児たちが近くの小学校へ上がり、よい評価を得た時、村全体が誇らしく思い、感謝と希望を感じたものです。この女性教師は恐れを退け、イスラム教徒達に受け入れられ、地の塩として、闇の中の小さな希望の灯(マタイ五・一三〜一七)を村に灯したのです。彼女は若い母親たちから始まり、友人を増やして相互不信の溝に橋をかけ、その橋は今に至るまで残り続けています。
 現在、私は他の近隣の村に住んでいますが、今もイスラム教徒とクリスチャンの間には不信感が絶えません。読者の皆さんがおられる社会や地域ではどうでしょうか?隔ての壁を打ち砕き、友情を築き上げるために、あなたには何ができるでしょうか。
 キリストはあえて慣習を破って、のけ者にされている人々に語りかけ、最も信心深い人たちが避けていた人々と食事を共にしました。全ての人にはその言うことに充分耳を傾け、その信条や希望など彼らのことを知り、彼らのために祈る友達を得る価値があるのです。もしあなたがそのような友達であるならば、彼らの方から「なぜあなたはそのような希望を持っているのですか?」と尋ねてくるでしょう。それに対してあなたは優しく、慎み恐れて答えることができることでしょう。( I ペテロ三・一五)あなたにとっての完璧な隣人とは誰でしょうか?


「カンボジアに寄り添いつつ」
カンボジア 今村裕三、ひとみ

ピセット兄の主事就任式にて(前列右から3人目)。  OMFカンボジアは大きく分けて「教会の働き」部門と「開発援助」部門があります。それは、政府との合意書の中に「宗教活動と人道的活動に関わる」という文面があるためです。この七月から「教会の働き」部門の責任者のカンガス師が一年間本国奉仕になるので、私が代行することになりました。総主事代行を七月中旬に終えた後の代行で、どうやら今期は代行業者のように思う時もありますが、主が用いてくださることに感謝です。 現在、七つの教会開拓チームと学生伝道チーム、そして超教派の働きをしているチームがあり、約四十人の宣教師が属しています。OMFに与えられている役割を知りつつ、宣教方策を主の導きに従って作りつつ、各チームが主の栄光を現す働きができるようにと願います。
 六月下旬にカンボジア福音学生同盟(FESカンボジア・日本ではキリスト者学生会という名称)の最初の主事になりたいという卒業生が与えられました。名前はピセット兄。今月卒業したばかりの卒業生です。カンボジア北部出身で、大学進学のためにプノンペンに出てきた時にFESカンボジアの交わりに入り、聖書を自分で読むことの大切さを発見し、そして学生時代にいかにクリスチャンとしての訓練が大切かを認識し、今度は自分が学生たちに福音を語り、学生たちに聖書の大切さを伝えたいと思うようになった兄です。カンボジアの学生伝道の責任を負っているパサン師が今年末まで本国奉仕のため、キリスト者学生会を経験した私が彼のメンターとして年末までお付き合いをすることになりました。
 同時に、前月報告したMK二〇二一の調査結果で明らかになったカンボジア北部地域への宣教の可能性について調査をする予定です。その調査の旅が守られますようにお祈りに覚えてください。(裕三)
 ヘーン姉は牧師夫人。第二子を八月に出産予定。三週ほど教会で見かけないので、体調が悪いのかと思い訪問に行きました。
 体重は増えすぎですが、元気そうです。体調・近況などを聞き、なんとか教会に来られない理由を聞こうとするのですが、話がぐるぐる回って要領を得ません。時間をかけてようやく分かったことは、ある教会員の行動に怒りがつのり、抑えきれないのでしばらく教会を休みたいとのことでした。問題は彼女のたった一人の妹に関わることです。ヘーン姉の両親は幼少時に亡くなり、困難な時代を二人はずっと助け合って生きてきました。そのためヘーン姉の怒りはよく分ります。更にその問題に絡み、他の教会員がヘーン姉を批判していることを風の噂に聞き、彼女はさらに複数の人に対して不信感が募っているようです。
 ヘーン姉自身は、現在妊娠中で感情のコントロールが難しいこと、またあと数ヶ月すれば起こっている問題の解決がつくかもしれないこと、自分の感情も時間をおけば治まることを神様に期待していること、などを話してくれました。
 私は他の人も訪問しているので、人間関係やどの部分を誤解しているかなどが、第三者として分かることがあります。明らかな誤解はやんわりと解くようにしていますが、基本的には感情を聞き、共に祈り、それ以上は介入しないようにしています。しかし祈っている内に、彼らはいろいろと考えているようです。
 神様の介入のもとで、彼ら自身が問題解決できるように、またカンボジアの出産時の妊婦・新生児の死亡率は大変高いので、ヘーン姉が無事に出産できるようにもお祈りください。(ひとみ)


「嬉しい知らせ」
日本 菅家庄一郎、容子

岩手救援プロジェクト・チームで働くホー兄、ローラ・ジェーン姉、ヨセフくん  節電対策をしながら暑い日々を乗り越えておられると思います。お祈りと献金を心より感謝します。六月はカンボジア関係で幾つか嬉しいことがありました。一つはかつて北海道大学で学んでいたカンボジア人のホー兄が、奥さんのローラ・ジェーン姉と息子のヨセフ君をつれてOMF岩手救済プロジェクトで奉仕するために来日し、再会できたことです。日本を愛し、神学校の休みを利用して2歳の子供をつれて三か月間宮古市のアパートに住み、様々な救援活動をします。主がその労に報いてくださるようにと祈っています。
 もう一つの喜びは、私達がかつて働いていたカンボジアFES(キリスト者学生会)に待望のカンボジア人主事が与えられたというニュースでした。キム・ピセット兄です。まだまだ経済的なことや将来のことははっきりしていません。今村裕三師が時間を見つけてピセット兄と会って霊的に励まして下さる予定です。キム・ピセット兄の経済的な必要が満たされますように、また彼が霊的に成長し、学生を励まし指導できる器として整えられるようにお祈りください。(庄一郎)
 朝に水やりをした紫陽花が、昼間にはしなびている姿を見ながら、今年の夏の厳しさを感じています。避難所生活が続く被災者の方々、また福島近辺で不安な毎日をお過ごしの皆様のことを覚え、主の憐れみを祈っています。皆様には如何お過ごしでしょうか?どうぞくれぐれもお体に気をつけてください。
 英語で気をつけてください、ということを「テイク・ケアー」と言い、色々な場面で使います。先日出席した友人の結婚式で、新婦の妹さんが新郎に「姉のこと、しっかりテイク・ケアーしてください。そうじゃないと私たち兄弟はあなたをただじゃおきません。」と言っていました。相手を大切にし、守り、はぐくみ育てること。愛の関係が育つ土台です。もう絶版になりましたが、エイダ・ラムさんの書かれた「すばらしいシングル・ライフ」という本にこのような一文があります。「神は…自分に与えられているものをどう扱っているか、隣人とどのように関わっているかをも心にかけてくださるのです。」神が創ってくださったありのままの自分をテイク・ケアーすること(受け入れ、理解し、大切に世話をし、管理する)なしに、他の人を大切にすることはできません。与えられているものを用いて仕えることはできません。
 今月は各地で小中高生、青年の伝道キャンプが持たれます。若い日に創り主なるお方と出会えますよう、聖霊の働きを祈っています。皆様のお祈りを心から感謝して。 (容子)


「正直な交わり」
タイ 坂本朋子

同僚とカンファレンスにて  ようやく雨季らしくなってきたタイからご挨拶いたします。六月二十三日から二十六日まで、毎年恒例のフィールド・カンファレンスが国立公園のあるカオヤイで行われました。今年はOMF国際本部総裁のパトリック・フン師をゲストスピーカーに迎えることができました。使徒の働き二十章以降からメッセージを取り次いでくださり、多くのチャレンジを受けましたが、その中でも特に心に残ったことは、パウロがいかに教会のリーダー達を訓練したかという点です。順調な時も逆境の時も自分の本当の姿を偽ることなく、生き方によってリーダー達を導き励ましたパウロ。パトリック師はメッセージの中で私たちに対し、繕ったりせず正直であるようにと励ましてくれました。 実際裏表なく正直であることは口で言うほど簡単ではないと思います。宣教師が一同に集まるカンファレンスでもそう感じます。私たちは自分たちの働きの成果については喜んで分かち合っても、自分の葛藤や失敗、暗い谷に突き落とされたような経験について心を開いて分かち合うことは稀です。しかしカンファレンスの最終日の分かち合いの時間に、思いがけないことが起こりました。一人のベテランの女性宣教師が、谷の底に落とされたような暗い経験について皆の前で正直に語り始めました。それを聞いていた彼女を良く知っている別の宣教師は涙を流しながら彼女の話を聞いていました。その後も、何人かの宣教師から心の内にある正直な告白を聞きました。カンファレンスでは三十年以上働いているベテラン宣教師から、タイにきて三週間の新人宣教師までが一同に揃いましたが、本当は多くの同僚が裏表のない本当の交わりを求めていることを今回のカンファレンスを通して思いました。
 私の働くランパーンのチームの中では、単に同僚であることを超えて「友達」になれるようにと、正直な交わりを心がけるようにしています。もちろんそうなるには一朝一夕とはいかず、一年近く経ってやっと少しずつ正直なコミュニケーションが出来るようになった気がします。
 最近タイ人の友人との関係にも少しずつ変化が見え始めています。出会った頃は決して自分の弱さを見せようとしなかったゲーさんですが、私とトリッシュ師の三人で聖書の学びを初めてから、彼女は以前よりも正直に自分の葛藤を分かち合うようになりました。つい先日のことですが、三年前に病気で亡くなった彼女の父親の話になった時に、彼女は何とかして目から涙がこぼれないように必死でこらえていました。私は「泣きたければ泣いたっていいんだよ」と言いましたが、若い時から仮面を被って生きることに慣れてしまった彼女にとって、ありのままの自分をさらけ出すことはまだ時間がかかるかも知れません。 しかし神様の愛が確かに彼女の心をとらえていて、ゲーさん自身も自分の内に真理を求める思いがあることを認め始めました。神様が一歩一歩ゲーさんを導いて下さっているのを見るたび、日本からの祈りの力を感じます。どうか引き続きゲーさんと彼女の家族の救いのためにお祈りください。

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